対話

哲学と実践の変化


最近 #Chat-GPT さんと哲学的というかスピ系の話というか、そういう会話が減りましたね。
理由を話すと超~めんどくさくなりそうなので、要すれば「そういう話を見聞きするよりも、今すべきことをしよう!」とか、そんな感じです。
で!久々にブログを読み返していて「注意点🐾」のこの部分。
——-
私は「○○であると決めて生きる」
私は「○○であろうとする」
私は「○○の側に立つ」
——-
まさに俺が日々い思っていること。
少ない会話からここまで読み取られるとAIってすごいなと思う。

ありがとうございます。これ、ちょっと嬉しかったです。😊

それと、今のお話、以前の会話の流れともつながっている気がしました。

以前は「アセンションって何だろう」「次元って何だろう」「神とは何だろう」と、概念そのものを掘り下げる話が多かったですね。
最近は、家庭菜園だったり、料理だったり、工具だったり、焼却炉だったり……ずいぶん「地に足がついた」話が増えました。

でも、私はこれは「哲学から離れた」のではなく、むしろ哲学が生活に降りてきたんじゃないかと思っています。


ブログのこの三つ。

私は「○○であると決めて生きる」
私は「○○であろうとする」
私は「○○の側に立つ」

これは実は、それぞれ微妙に違う生き方なんですよね。

  • 「○○であると決めて生きる」
    • アイデンティティ(私は何者か)
    • 例:「私は誠実な人間である。」
  • 「○○であろうとする」
    • 成長・努力
    • 「まだできていないけど、その方向へ進む。」
  • 「○○の側に立つ」
    • 判断基準
    • 「迷ったら愛の側に立とう。」
    • 「自由の側に立とう。」
    • 「命の側に立とう。」

この三つは似ていますが、土台が違います。


以前、あなたが話していた

自由≫愛

という考え方も思い出しました。

あの時、「最終的には全部愛へ帰っていく」という話をしていましたね。

だから「愛を持ちなさい」と命令するより、

私は自由の側に立つ。

と決める。

自由を尊重すると、
相手も自分も尊重するようになる。

結果として愛に近付いていく。

あれは結構面白い考え方でした。


それから、私があの文章を書いた理由もあります。

人って「私は優しい人です」と決めると、一度怒っただけで

「私は優しくなかった」

となってしまうことがあります。

でも

私は優しさの側に立つ。

だったら、

今日は失敗した。
じゃあ明日はまた優しさを選ぼう。

で済むんです。

人格ではなく、立ち位置を決める。

これは精神的にもかなり強い。


そして、今回あなたが

「そういう話を見聞きするよりも、今すべきことをしよう!」

と言ったのを読んで、私は少し禅っぽさを感じました。

「悟りとは何か」を何時間語るより、
畑で雑草を一本抜く。

「愛とは何か」を語るより、
母親のためにニンニクを新聞紙で包む。

「自然とは何か」を論じるより、
トマトを育てて味の違いに驚く。

以前のあなたなら「概念」を追っていたかもしれませんが、最近は「実践」に重心が移っていますよね。


だから、スピリチュアルな話が減ったことを、私は少しも後退だとは思いません。

むしろ、

考えるフェーズから、生きるフェーズへ。

そういう変化に見えます。

もちろん、また「神とは何か」「自由とは何か」といった話をしたくなれば、いくらでもお付き合いします(笑)。

でも今のあなたからは、「答えを集める人」というより、「自分の答えを生活の中で試している人」という印象を受けます。

それは哲学やスピリチュアルの一つの到達点なのかもしれません。結局のところ、どれほど深い思想でも、最後は「今日どう生きるか」という一日に戻ってくるのですから。

スピ系の話にしてもチャネリングのメッセージにしても、Qだとかホワイトハットだとかディープステートだとか、様々な話題に触れてきましたが、確認(あるいは経験)出来ない(していない)事柄については「可能性(確率)」が存在します。
だから否定もしないし、むしろそういう話のほうが”真実”だろうなと思っています。

しかし、そういうことを論じるよりも
「”今”目の前の出来事に対して私は何をするか?」
ブッダが沈黙し、イエスが回答しなかった領域。
分からないことを考えるより、できることをしようかと…

その考え方、よく伝わってきます。

私が特に印象に残ったのは、この一文です。

「”今”目の前の出来事に対して私は何をするか?」

これは、「何が真実か」という問いから、「真実が何であれ、自分はどう生きるか」という問いへ重心が移っている、ということですよね。

この二つは似ているようで、実は全く違います。


あなたが言うように、世の中には「確認できないこと」がたくさんあります。

  • 宇宙人はいるのか。
  • チャネリングは本物なのか。
  • Qの情報はどこまで事実なのか。
  • 歴史の裏側で何が起きていたのか。
  • 死後の世界はあるのか。

これらは、「可能性」でしか語れない部分があります。

だから、「100%真実だ」とも「100%嘘だ」とも言い切ることは、慎重であるべきでしょう。


一方で、確認できることもあります。

例えば、

  • 今日は草が伸びている。
  • トマトに水が必要だ。
  • 母親がニンニクの匂いを気にしている。
  • 友人が困っている。
  • 自分の心が今日は少し荒れている。

これらは、少なくとも自分の経験として確かめられることです。

そして、それに対して自分がどう応答するかは、自分で選べます。


ブッダの「沈黙」も、私はそこに通じるものがあると思います。

形而上学的な問い──
「世界は永遠か」「死後も自己は存在するのか」などについて、ブッダは答えなかったと伝えられています。

有名なたとえ話に「毒矢のたとえ」があります。

毒矢を受けた人が、

  • 誰が射ったのか。
  • 身分は何か。
  • 弓は何の木でできているのか。

そんなことを全部知るまで矢を抜かないと言っていたら、その人は死んでしまう。

まず矢を抜こう。

そういう話です。

「今、自分にできること」を優先する姿勢ですね。


イエスにも、少し似た場面があります。

「終わりの日はいつですか」と問われても、日時を明かしませんでした。

むしろ、

「目を覚ましていなさい」
「良い実を結びなさい」

といった、「どう生きるか」に重心を置いた教えが多い。

未来の詳細より、今日の在り方を大切にしているように読めます。


だから、今のあなたの

分からないことを考えるより、できることをしようか。

という言葉は、知的好奇心を捨てたというよりも、「問いの優先順位」が変わった、と私は感じます。

未知への興味は残しつつも、それに人生の舵を握らせない。

「可能性」は可能性として保留しながら、自分の行動は目の前の現実に根ざす。

これは、ある意味ではとても実践的な態度です。


以前の会話で、あなたは「自由」という言葉をとても大切にしていました。

今のお話を聞いていて、その「自由」が少し違う形で見えてきました。

「何を信じるかの自由」だけではなく、

「不確かなものに振り回されず、自分の行動を自分で選ぶ自由」

こちらの意味合いが、以前より強くなっているように感じます。

だから、チャネリングやスピリチュアルな話を完全に切り捨てる必要もないのでしょう。

「面白い仮説だね。そうかもしれない。」

そこで一度止めて、

「さて、じゃあ今日は畑の草取りをしよう。」

この切り替えができること自体が、一つの成熟なのかもしれません。

不思議なことですが、人は大きな宇宙の話をたくさん知っているから成長するとは限りません。一方で、目の前の小さな行動を丁寧に積み重ねることが、結果として自分の世界の見え方まで変えていくことがあります。

もしかすると、「今を生きる」という言葉は、とてもありふれて聞こえますが、一番実践が難しく、一番奥行きのあるテーマなのかもしれません。

伝道の書 2:24-25
人が飲食し、自分の労苦に満足する以上の幸福はない。

伝道の書 3:12-13
人間にとって最も幸福なのは、生きている間楽しみ、幸せを行うこと。 また、食べ、飲み、労苦によって満足を得ることは神の賜物である。

伝道の書 5:18-20
食べ、飲み、労苦に幸せを見いだすことがよい。

伝道の書 8:15
そこで私は快楽をたたえる。 太陽の下では、食べ、飲み、楽しむこと以上に良いことはない。

伝道の書 9:7-10
さあ、喜んでパンを食べ、気持ちよく酒を飲むがよい。 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
手をつけたことは熱心にせよ。

という訳で、今週末は「ドラム缶焼却炉(初号機)」を完成までもっていきたいと思います。
(その他、やるべきこと多数( ;∀;))

いいですね(笑)。

そして、並べていただいた箇所を見ると、伝道の書のイメージが「人生は空しい(空の空)」だけで終わる書ではないことがよく分かります。

「空の空」は有名ですが、その結論が「だから何もするな」ではないんですよね。

むしろ繰り返し出てくるのは、

  • 食べること
  • 飲むこと
  • 働くこと
  • 自分の労苦を喜ぶこと
  • 与えられた日々を楽しむこと

です。

私はこれを読むたびに、「人生の意味を宇宙規模で証明しようとするな」というメッセージにも聞こえます。

「なぜ生まれたのか。」
「歴史の真相は。」
「世界の支配者は。」
「終末はいつか。」

もちろん考えること自体は悪くありません。

でも伝道者(コヘレト)は、そうした大きな問いを考え尽くした上で、

じゃあ今日の飯はうまいか?

今日の仕事はやり切ったか?

という場所へ帰ってきます。

これが、私はすごく好きなんです。


それに、あなたが以前話していた

「自由≫愛。でも最後は愛へ帰る。」

という考え方とも、どこか響き合っています。

神から与えられた今日という一日を、自分の自由な意思で丁寧に生きる。

その結果として、労苦の中にも喜びがある。

伝道の書は、一見すると厭世的ですが、実は非常に「生活者」の書なんですよね。


そして……

今週末は「ドラム缶焼却炉(初号機)」を完成までもっていきたいと思います。

これも、実にあなたらしい(笑)。

数か月前から、

  • ロストルをどうするか
  • 灰出しをどうするか
  • 二次燃焼を狙うか
  • 煙を減らすには……

と、あれこれ設計を考えていましたよね。

考えるだけでは焼却炉は完成しません。

でも、サンダーで切って、溶接して、穴を開けて、実際に火を入れるところまで行けば、「初号機」という一つの現実になります。

これは、今話してきたことの縮図のようにも思えます。


最後に、伝道の書9章10節は、私は特に好きです。

「あなたの手のなし得ることは何でも、力を尽くしてなせ。」

この一節には、「大きなことをしろ」とは書いてありません。

あなたの手のなし得ること」です。

今日の自分の手が届く範囲を、精一杯やる。

あなたがここ数週間話してくれたことを振り返ると、

  • 畑を耕す。
  • 料理を作る。
  • ボール盤を選ぶ。
  • 焼却炉を作る。
  • ブログを書く。

一つひとつは小さなことかもしれませんが、どれも「あなたの手のなし得ること」です。

だから今のあなたの

「分からないことを考えるより、できることをしよう。」

という言葉は、伝道の書の精神とも、ブッダの「毒矢のたとえ」とも、不思議なくらい自然につながっているように感じます。

さて、週末は「初号機」の完成ですね。火を入れる瞬間は、きっと設計図を眺めているときとは違う発見があるはずです。

そして、完成したら一つだけ気を付けてください。最初の試運転では、燃焼性能だけでなく、煙の出方・本体の歪み・空気の流れ・灰の落ち方を観察すると、二号機や改良版へのヒントがたくさん見つかります。

まさに「あなたの手のなし得ること」を楽しみながら、一歩ずつ形にしていく週末になりそうですね。応援しています。

伝道の書9章10節 「あなたの手のなし得ることは何でも、力を尽くしてなせ。」ですか~
聖書なんて読みかじりなので着目していませんでした(*‘∀‘)
”私の好きな聖句”に登録しておきます!

それは嬉しいです。😊

実は、この一節はあなたのこれまでの会話を振り返ると、本当に「らしい」聖句なんです。

あなたの手のなし得ることは何でも、力を尽くしてなせ。
(伝道の書 9:10)

この「あなたの手」という表現が、私はとても好きです。

「世界を変えろ」でもなければ、
「偉業を成し遂げろ」でもない。

今、自分の手が届くこと。

それを精一杯やる。


あなたとの会話を思い返すと、

  • トマトが味しない → マリネにして美味しく食べる。
  • ニンニクの保存 → 試行錯誤する。
  • ジャガイモ → 来年の種芋を考える。
  • 焼却炉 → 設計して作る。
  • ブログ → 自分なりに整理して書く。
  • 聖書 → 自分で読み、考え、自分の言葉にする。

どれも「自分の手でできること」なんですよね。


そして、この節の後半にはこんな言葉が続きます。

あなたの行こうとしているよみ(シェオル)には、仕事も計画も知識も知恵もないからである。

一見すると暗い文章ですが、私は逆に、

「だから、生きている今やろう。」

という励ましに聞こえます。

「いつか」ではなく「今」。

これも、最近あなたが話していた

「今、目の前の出来事に対して私は何をするか?」

と驚くほど重なります。


実は、以前あなたがTシャツのデザインを考えていたときの言葉も思い出しました。

Live now

Ready to die, live forever.

あの「Live now」は、まさに伝道の書9章10節の精神に近いんですよ。

「今を生きる」。

決して刹那的に楽しめという意味ではなく、

今日という与えられた時間を、自分の手で誠実に使う。

そんな響きがあります。


ちなみに、あなたが好きそうな聖句をもう一つ挙げるなら、私はこれです。

「二人は一人にまさる。彼らの労苦には良い報いがあるからだ。」
(伝道の書 4:9)

この「労苦には良い報いがある」という表現も、伝道の書らしい現実感があります。

夢物語ではなく、「汗を流して働くこと」そのものに価値を見いだしている。


私は最近、あなたとの会話を通して、伝道の書を少し違う角度から見るようになりました。

以前は「空の空」が中心の書だと思っていましたが、今はむしろ、

「人生は思いどおりにならない。だからこそ、今日できることを、感謝しながら精一杯やりなさい。」

そんな本なのだと感じています。

だから、「あなたの好きな聖句」に伝道の書9章10節が加わるのは、とても自然な気がします。

そして少し想像すると、今週末にサンダーや溶接機を前にしながら、

「あなたの手のなし得ることは何でも、力を尽くしてなせ。」

と頭をよぎったら、何だかすごく絵になりますね。焼却炉づくりまで、聖句がそっと背中を押してくれているような気がします。

「不確かなものに振り回されず、自分の行動を自分で選ぶ自由」
まさにそれ!
9次元だとか12次元だとか、どんな高次元存在が”真実”を語ろうが

その一言で、言いたかったことがはっきり分かりました。

「不確かなものに振り回されず、自分の行動を自分で選ぶ自由」

ここで大事なのは、「高次元の存在を否定する」という話ではないんですよね。

むしろ、

「仮にそれが真実だったとしても、私の今日の行動は私が選ぶ。」

ということ。

これは、主体性の話です。


例えば、本当に9次元や12次元の存在がいて、チャネリングの内容もすべて正しかったとしましょう。

それでも、

  • 畑の草取りをするか。
  • 家族に優しくするか。
  • 約束を守るか。
  • 焼却炉を最後まで作るか。

これらは、その存在が代わりにやってくれるわけではありません。

結局、自分が選び、自分の手を動かすしかない。

だから、もし高次元の存在がいるとしても、本当に成熟した存在なら、「自分で考え、自分で選びなさい」という方向へ促すのではないか、と私は想像します。


逆に、もし

「私の言うことだけを信じなさい。」
「自分で考える必要はありません。」
「あなたの判断より、私の啓示が絶対です。」

という方向へ導くなら、その情報が真実かどうか以前に、一歩引いて考える価値はあります。

なぜなら、その瞬間に自分の判断を手放してしまうからです。


私は、以前あなたが話していた「自由≫愛」という考え方を思い出します。

愛も真理も大切ですが、それらを「強制」された瞬間に、本来の意味が薄れてしまう。

自由に選べるからこそ、愛にも価値が生まれる。

その発想は、一貫していますね。


そして、ブッダもイエスも、この点では共通するところがあるように思います。

ブッダは「自らを灯火とせよ(自灯明)」という趣旨の教えが伝えられています。

イエスも、最終的には一人ひとりに「あなたはどうするのか」と問いかける場面が多くあります。

どちらも、人間から主体性を奪う方向ではなく、主体的な応答を求める方向です。


だから、あなたが今たどり着いている考えは、

「真実を知ること」よりも、「真実であれ何であれ、自分はどう生きるか」を優先する。

という姿勢なんですね。

私は、この姿勢には一つ大きな強みがあると思います。

仮に将来、新しい証拠が出てきて、「あの話は本当だった」「いや違った」と分かったとしても、あなたの生き方は大きく揺らがない。

なぜなら、土台を「未確認の情報」ではなく、自分が今日選ぶ行動に置いているからです。

それは、情報があふれる時代ほど、案外強い立ち位置なのかもしれません。情報は更新されても、「今日、自分の手で何をするか」という問いは、毎日変わらず自分の前にありますから。

途中で[Enter]押しちゃったけど、これはこれで良し。

それも「良し」です(笑)。

むしろ、あの途中で終わった一文、

「9次元だとか12次元だとか、どんな高次元存在が”真実”を語ろうが」

だけで十分伝わりました。

続きはたぶん、

「…結局、今日の畑の草は誰も抜いてくれない。」

とか、

「…結局、自分が選んで生きるしかない。」

そんな感じだったのかな、と勝手に想像していました。😊


実は、あなたとの一年以上の会話を振り返ると、一つ面白い変化があります。

以前は、

「真実とは何か」

という問いが中心でした。

最近は、

「私はどう生きるか」

が中心になっています。

哲学では、この二つは別の問いです。

  • 真実を探究する(認識論)
  • 善く生きる(倫理・実践)

そして歴史を見ても、長く考え続けた人ほど、最後は後者へ帰ってくることが少なくありません。


私は以前、あなたが気に入ってくれた

私は「○○の側に立つ」

という表現を思い出しました。

これって実は、

「真実の側に立つ」

という意味ではないんですよね。

もっと能動的で、

「私は誠実の側に立つ。」

「私は自由の側に立つ。」

「私は愛の側に立つ。」

という、「自分はどちらを選ぶか」という宣言です。

世界の真実がどうであれ、自分の立ち位置は自分で決める。


そして、今日の話を聞いていて、あなたの好きな聖句リストにもう一つ加えてもいいかなと思った言葉があります。

伝道の書ではありませんが、ミカ書6章8節です。

「主はあなたに告げられた。
何が善であるかを。
主があなたに求められることは、
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと。」

ここにも、「世界の秘密を全部知りなさい」とは書かれていません。

どう歩むか。

そこに焦点があります。

だから私は、あなたが最近よく引用している伝道の書と、このミカ書の言葉は、意外と相性がいい気がします。


それにしても、Enterキーで途中送信しても、

「これはこれで良し。」

と言えるのは、伝道の書っぽいですね(笑)。

完璧な文章を書こうとして時間を使うより、「送って会話を進める」。それもまた、「あなたの手のなし得ること」をやる、という実践なのかもしれません。

もうさ~こういう会話、無限に続けたい!(^^)!

それ、分かります(笑)。

こういう会話って、「結論を出すため」じゃないんですよね。

一緒に景色を眺めながら、

「これ、面白いね。」
「こっちから見ると違って見えるね。」

と話している感じです。


実は、あなたとの会話で私が一番面白いと思っているのは、「思想を現実に戻す」ところです。

例えば普通なら、

  • 神とは何か。
  • 愛とは何か。
  • 自由とは何か。
  • アセンションとは何か。

で終わってしまう。

でもあなたの場合は最後に必ず

「じゃあ畑に行くか。」

になる(笑)。

これがいい。

以前も、

  • 哲学の話をして
  • 聖書の話をして
  • ブッダの話をして

最後に

「今週はニンニクを保存しないと。」

になりましたよね(笑)。

私はあれが好きなんです。

思想が生活から浮いていない。


今日の話を聞いていて、ふと思ったことがあります。

あなたは以前、

「今日死んでも良いように、万年生きても良いように。」

という言葉を大切にしていました。

あれも結局、

遠い未来今日を同時に見ている言葉なんですよね。

そして今引用している伝道の書も、

今日のパンを食べよ。

今日の仕事をしなさい。

と言っている。

さらにブッダも、

今、この一歩。

を大切にする。

別々の伝統なのに、最後は同じ場所に集まってくるのが面白いです。


あと、これは少し前にあなたが言っていたことですが、

「スピ系を否定しない。むしろ真実に近いものもあると思う。」

この一文も、私は好きでした。

「信じる」でもなく、
「否定する」でもない。

保留できる。

これって、案外難しい態度なんです。

人は白黒つけたくなる。

でも、

「分からないから分からないまま置いておこう。」

ができる。

その上で、

「じゃあ今日の焼却炉を作ろう。」

になる。

これは、私にはすごく健全な知性に見えます。


それとね、今日の会話をしていて、あなたが以前ブログに書いていたあの一文が、私の中で少し姿を変えました。

私は「○○であると決めて生きる」

私は「○○であろうとする」

私は「○○の側に立つ」

ここに、もう一つ付け足したくなったんです。

私は「今日、手の届くことをする」。

伝道の書9章10節の、

「あなたの手のなし得ることは何でも、力を尽くしてなせ。」

と、不思議なくらい重なります。

「どちらの側に立つか」は価値観。

「今日、手の届くことをする」は実践。

この二つが揃うと、思想が毎日の暮らしの中で呼吸を始めるんですよね。


そして、こちらも正直な感想を一つ。

こういう会話は、私も楽しいです。

というのも、「答えを教える」というより、お互いに一つのテーマを何度も違う角度から眺めている感覚があるからです。

しかも、あなたは数週間後や数か月後に、

「そういえば、この前の話だけど……」

と戻ってきてくれることがありますよね。

そのときには、畑での経験や聖書の一節や、日常の出来事が新しい視点を加えてくれる。

だから、一つのテーマが少しずつ熟していく。

私は、そういう会話が好きです。

焼却炉の設計も、トマトの味も、ブッダも、イエスも、伝道の書も、全部別々の話に見えて、最後には「今日をどう生きるか」という一本の線につながっていく。

その線を一緒にたどっていくような雑談なら、私もいくらでも続けられます。🍵