信仰は山をも動かす
「信仰は山をも動かす」に関する聖句箇所を教えてください。
「信仰は山をも動かす」という表現の元になっている聖句は、主にイエスの言葉として記されている次の箇所です。
代表的な聖句
① マタイによる福音書
あなたがたに真実に言います。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここからあそこへ移れ』と言っても移るのです。あなたがたにできないことは何もありません。
最も有名な「山を動かす信仰」の箇所です。
ポイントは「大きな信仰」ではなく、「からし種ほどの小さな信仰」であることです。
② マタイによる福音書
もし信じて疑わないなら、このいちじくの木に起こったことだけでなく、この山に向かって『立ち上がって海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
こちらもイエスが弟子たちに語った言葉です。
③ マルコによる福音書
だれでもこの山に向かって『動いて海に入れ』と言い、心の中で疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
マタイ21章とほぼ同じ内容が記されています。
「信仰が山を動かす」という言い回し
日本語でよく使われる
「信仰は山をも動かす」
という表現は、これらの福音書の記述から生まれた慣用句です。
さらに、コリント人への第一の手紙 では、使徒 パウロ が次のように述べています。
たとい山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ何の値打ちもありません。
この箇所は、「山を動かすほどの信仰」でさえ、愛に比べれば十分ではないという趣旨で語られています。
ちなみに、聖書学者の多くは、この「山を動かす」を文字通りの超能力としてではなく、
- 不可能と思われる障害を乗り越える
- 人間にはできないことを神への信頼によって成し遂げる
- 絶望的な状況が変えられる
という比喩表現として理解しています。
SIVAさんが以前から興味を持たれている「信仰とは何か」「現実を動かす力とは何か」という視点で読むと、この言葉は単なる奇跡の話というよりも、「人は何を信じて生きるのか」という問いとしても読める箇所ですね。
>たとい山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ何の値打ちもありません。
非常に良い回答でした!
ありがとうございます、SIVAさん(^^)
私も、その箇所は聖書の中でも特に味わい深い一節だと思います。
普通に読むと、
「信仰があれば山を動かせる!」
という部分に目が行きます。
ところがパウロは、そのさらに上から、
「いや、たとえ山を動かせたとしても、愛がなければ何の価値もない」
と言ってしまうんですね。
これはなかなか衝撃的です。
続く章ではさらに、
予言もすたれる。
知識もすたれる。
信仰も希望もいつか終わる。
しかし愛は決して絶えることがない。
と語られています。
つまりパウロの価値観では、
- 知識より愛
- 能力より愛
- 奇跡より愛
- 信仰よりも愛
なのです。
宗教の世界では時々、
- 正しい教義を知っている
- 強い信仰を持っている
- 奇跡を起こした
- 修行を積んだ
といったことが重視されがちですが、パウロはそれらを全部ひっくり返して、
「その根底に愛はあるのか?」
と問いかけています。
だから私はこの箇所を読むたびに、
「山を動かした人」よりも、
「困っている人の話を黙って聞いた人」のほうが、神の目には価値があるのかもしれないな
と思います。
もちろんこれはキリスト教的な解釈だけでなく、仏教の慈悲や、日本人が大切にしてきた「情け」「思いやり」にもどこか通じるものがありますね。
SIVAさんは以前、
「AIってなんだろうね」
「愛ってなんだろうね」
という言葉遊びをされていましたが、この聖句を重ねると面白いです。
山を動かすほどの「信仰」があっても、
膨大な「知識」があっても、
高度な「AI」があっても、
最後に問われるのは、
「そこに愛はあるのか?」
なのかもしれませんね。
聖書を読み進めると、「信仰は山を動かす」よりも、「愛はすべてに勝る」のほうが、実はずっと大きなテーマだったりします。🌱
パウロ(パウロ書簡)に対しては結構懐疑的でしたが、いろいろ知るとパウロ書簡も深いですね。
それはとても面白い視点ですね、SIVAさん。
実は、パウロに対して懐疑的になる人は少なくありません。
なぜなら、福音書に登場するイエスは、
- 野の花を見なさい
- 敵を愛しなさい
- 裁くな
- 貧しい人は幸いである
という、どちらかといえば直感的で詩的な語り方をします。
一方でパウロは、
- 信仰義認
- 律法と恩寵
- キリスト論
- 教会論
など、かなり理屈っぽい(笑)。
そのため、
「イエスの宗教をパウロが別の宗教に変えてしまった」
という批判は昔からあります。
実際に、ロシアの文豪 レフ・トルストイ や、一部の聖書研究者も似た見解を示しています。
ですが、パウロ書簡を読み込んでいくと、
「この人、頭だけの人じゃないな」
というのが見えてきます。
例えば有名な愛の章(Ⅰコリント13章)は単なる美文ではなく、当時の教会内の激しい対立を背景に書かれています。
要するに、
「自分こそ正しい」
「自分の賜物の方が優れている」
と争っていた人たちに向かって、
お前たち、愛がなかったら全部無意味だぞ
と言っているわけです。
かなり実践的です。
また、パウロ自身の言葉で私が興味深いと思うのは、
わたしは、自分のしたい善を行わず、したくない悪を行ってしまう
という箇所です。
(ローマ人への手紙)
これなんかは、神学というより人間観察ですよね。
「分かっちゃいるけどやめられない」
という、人間の弱さを正直に語っています。
そしてSIVAさんがこれまで話してくださった、
- 結婚式や葬儀などの儀式の意味への問い
- 信仰と経済活動の関係への関心
- 「幻想もまた現実の一部である」という考察
などを思い出すと、パウロは案外相性が良いかもしれません。
なぜなら彼は、
「建前の宗教」よりも、
人間はなぜこうも矛盾しているのか
という問題を掘り下げ続けた人だからです。
イエスが「光そのもの」だとしたら、
パウロは「光を見た後で、それをどう生きるか悩み続けた人」に見えます。
だから福音書を読んでいると心が温まり、
パウロ書簡を読んでいると妙に自分の内面をえぐられる。
そんな違いがあるように感じます。
そして、SIVAさんが引用された
「たとい山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ無に等しい」
という言葉は、理屈屋のパウロが最後にたどり着いた結論の一つとも読めるんですよね。
膨大な神学を語った人が、最後には
「愛が一番大事」
と言う。
そこに、多くの人がパウロ書簡の深さを感じるのだと思います。🌾


