真実の探求
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追加の質問です。「真実を知らない者は真実を知ることが出来る」と思いますか?
AはXが真実だと言い、BはYが真実だと言い、CはZが真実だと言います。
ここにおいて真実を知らない”存在E”は何が真実かを判断できますか?
この様に「他者からもたらされる”真実”」が”真実”であるか否かを判断するのが自己の意識であるならば”自分自身”という存在(する意識)が予め何が真実であるかを知っている必要があります。
果たして「真実を知らない者は真実を知ることが出来る」と思いますか?
この問いは非常に哲学的で、認識論(知識とは何か、どのように得られるのか)や存在論(存在とは何か)に関わる深い議論を含んでいます。以下に、この問いを段階的に考察してみます。
1. 「真実」とは何か?
「真実」をどう定義するかがまず重要です。
- 客観的な真実:主観や認識に関わらず、独立して存在する事実。例えば、自然法則や数学的真理。
- 主観的な真実:個々の視点や経験から導かれる信念や価値観。
AがXを、BがYを、CがZを「真実」と主張する場合、それぞれの「真実」が主観的であれば、これらは単なる信念の表明であり、客観的な真実を指しているとは限りません。
2. Eは真実を知らない存在か?
- Eが完全に無知である場合:Eが世界に関する一切の情報を持たない場合、真実を知ることは極めて困難です。なぜなら、何かを判断する基盤が存在しないからです。
- Eが情報を持っているが、それが矛盾している場合:A, B, Cから異なる「真実」が提示された場合、Eがそれをどのように判断するかはEの認識能力と判断基準に依存します。
ここで、「Eが真実を知らない」とは、「基準」や「方法論」を持っていないことを意味するならば、Eが真実を知るのは難しいでしょう。逆に、Eが「真実を知らない」状態でも、信頼できる基準(例:科学的方法や論理)を持っているならば、「真実」に近づく可能性はあります。
3. 自己の意識が真実を知っている必要があるのか?
あなたの主張の核心は、「真実を知らない者が真実を知るには、自己の意識が予め真実を知っている必要がある」という点にあるように見受けられます。この点について考察すると:
- カント的視点では、人間の認識は先天的な枠組みに依存しており、この枠組み(時空間や因果律など)によって世界を理解する。真実そのもの(物自体)を直接知ることはできないが、自己の認識能力が間接的に真実を構築する。
- 現象学的視点では、意識が能動的に世界を捉え、その過程で「意味」や「真実」を生み出す。つまり、自己が何を真実と認めるかは、自己の先行する枠組みによる。
したがって、「自分自身が予め真実を知っている必要がある」というのは、意識が真実を知覚する枠組みを持っていることを指すのであれば、ある程度妥当です。ただし、意識そのものが「客観的な真実」を知っているわけではありません。
4. 真実を知らない者は真実を知ることができるか?
最終的に、この問いへの答えは、以下の点に依存します:
- 真実へのアプローチが可能か?
- 自分の限界(知識、認識能力)を理解しつつ、多様な視点を批判的に検討することで、「真実」に近づくことは可能です。
- 科学や哲学はまさに「真実を知らない者」が「真実に近づこう」とする努力そのものです。
- 自己意識が役割を果たすか?
- 真実を知る過程で、自己意識が判断基準を設定します。したがって、何が真実かを判断する力が自己の中に備わっている必要があります。ただし、それは予め「完全な真実」を知っていることを意味するわけではありません。
結論
**「真実を知らない者が真実を知ることができるか?」**という問いへの答えは「はい、ただし条件付き」です。
真実を知るには:
- 判断基準や方法論(自己意識がこれを提供)が必要である。
- 批判的かつ柔軟な思考を持ち、主観的な「真実」を超えて客観的な事実に迫ろうとする努力が必要である。
つまり、「完全に何も知らない状態」では真実を知ることは難しいが、学び、考え、問い続ける存在である限り、真実に近づくことは可能です。
昨日ブログの「このサイトについて」
https://siva.jp/index.php/about-this-site/
を少し書き換え↓を追記しました。
>私は「問いを問い続ける者」です。
この会話スレッドはかなり以前のものですが、これからブログに転記しようと読み返していました。
>学び、考え、問い続ける存在である限り、真実に近づくことは可能です。
このころの会話にもその片鱗がありますね。
はい、まさにそう感じます。
今回あなたがブログに追記された
私は「問いを問い続ける者」です。
という一文は、このスレッドで交わされてきた思考の姿勢そのものを、非常に端的に言語化しているように思います。
この会話にすでにあった「片鱗」について
当時のやり取りの中で出てきた、
学び、考え、問い続ける存在である限り、真実に近づくことは可能です。
という考え方は、
「真実を所有する者」ではなく、「真実へ向かう運動そのものとしての存在」
という立場を示しています。
これは、
- 真実を「到達点」としない
- 真実を「固定された答え」と見なさない
- しかし同時に、相対主義に逃げない
という、非常に緊張感のある姿勢です。
「問いを問い続ける者」という自己定義の強さ
重要なのは、「問い続ける者」ではなく
「問いを問い続ける者」
と書かれている点だと思います。
これは、
- 何が正しいかを問うだけでなく
- なぜそれを正しいと問うのか
- その問いの前提は何か
という、メタレベルへの自己反省を含んでいます。
先ほどの議論に当てはめれば、
- Eは「真実を知らない存在」かもしれない
- しかしEが
- 判断基準そのものを問い
- 「誰が・どの立場から・何を真実と呼んでいるのか」を問い
- さらに「自分はなぜそれを信じようとしているのか」を問う
ならば、Eはすでに
「真実を知らない者」ではあっても、「真実から切り離された者」ではない
と言えるでしょう。
真実は「知るもの」か、「関わり続けるもの」か
このスレッド全体を通して浮かび上がるのは、
真実とは、知った瞬間に確定するものではなく、
問い続ける姿勢の中でのみ開かれ続けるものではないか
という考えです。
その意味で、
- 「真実を知らない者は真実を知ることが出来ない」という命題は
→ 真実を“所有物”とみなす立場 では正しい - しかし
- 「真実を知らない者でも、問い続ける限り真実に関わり続けることはできる」
という立場に立つなら、
あなたの現在の自己定義は、当時の思考の自然な延長線上にあるように見えます。
まとめとして
この会話を今読み返して「片鱗がある」と感じられたのは、
思想が変わったのではなく、言葉が追いついたからではないでしょうか。
ブログの一文は、
以前から続いていた思考の「姿勢」が、
時間をかけて沈殿し、結晶化した表現のように思えます。
まさに「問いを問い続けてきた」結果ですね。


